「蝶と混沌」
                        ひーやん



「ただいまーっと。っはぁはぁ、ふーう」
 施錠されていなかったドアを勢いよく開けたまことは、手に持っていた
コンビニの袋を三和土に放り出すと、犬のように頭をぶるぶると振って髪
を濡らした水滴をはじき飛ばした。
 夏休みに入ったばかりの週末。一緒に宿題を片づけに、と言うよりは夏
休みの計画をたてに部屋に来ていた亜美達を見送りついでに外に出たのも
つかの間、突然の夕立に見舞われたのは全くの予想外だった。
「はぁ、はぁ…、凄い、降り、だったわ、ね、はぁ」
 まことから遅れること数秒。閉まりそうになるドアを体で押し開いた亜
美は、そこで力尽きたように体を屈めると、両の手を膝頭にあて大きく肩
で息をついた。
「ほんと、突然だったわね」「はぁ、はぁ、みんな早いよーっ」「まこち
ゃん、悪いけどタオル貸してちょうだい」
「あ、ごめん。いま持ってくるよ」
 滑らかなレイの黒髪から水滴がぽたぽたと落ちる。まことは履いていた
サンダルを脱ぎ捨てると、慌ただしく風呂場へと駆けていった。
「やっぱりさっきのコンビニで、傘買っておけば良かったわね」
「それってあたしのせいってこと? そりゃ、結果は裏目にでちゃったけ
どさぁ」
 レイの言葉に美奈子は苦笑い。
 前触れなく降り出した雨に、近くのコンビニエンスストアへと避難した
までは良かったのだが、激しさを増すばかりの空模様に一旦まことの部屋
に戻ることを提案したのは彼女だった。
「別にいいんだけど」
 美奈子の様子に今度はレイがバツが悪そうにそっぽをむく。
 走れば一分足らずで着けるからと高を括ったのは、レイにしても同じこ
とだった。何より、一度ならず傘を買おうと薦めた亜美に「勿体ないから
やめときなさい」と言ったのは誰だったか。
「あーん、遅くなったらママに怒られちゃうよー」
 うさぎが時計を気にしながらぼやく。時刻は午後八時を少し回ったとこ
ろ。
「だったら帰れば? 別に誰も止めないわよ」
「なによぉ、レイちゃんのイヂワル」
「なんですって!」
「まぁまぁ、二人ともそれくらいにしときなよ。はい、タオル」
 人数分のタオルを抱えて戻ってきたまことが、掴みかからん勢いの二人
の間に割って入る。
「今のうちに電話しておきなよ。この雨なら仕方ないって」
「うん、そうする。じゃあ悪いけど後で電話借してね。この前携帯壊しち
ゃって」
 まことからタオルを受け取ったうさぎは、大きく頷くとてへへと笑った。
レイはその笑顔にやれやれとばかりに肩をすくめる。
「どーせトイレにでも落としたんでしょ」
「いいよレイちゃん。はい亜美ちゃん美奈子ちゃんもタオル。あたしの方
は全然構わないから、雨が止むまでゆっくりしていけばいいよ。あ、亜美
ちゃんも家に連絡するんだったら、うちの電話使えばいいから」
「あ、私は今日は母が留守だから…」
「お泊まりでもおっけー、だそうよ。まこちゃん」
「みっ、美奈子ちゃん!」
 亜美の言葉尻を捕らえた美奈子が、そう言ってにゃはははと笑う。
 一瞬で顔を赤らめ声をあげた亜美はしかし、むしろそれが美奈子を喜ば
せる事になりそうな気がして、持っていたタオルで頭を拭くふりをしなが
ら顔を覆った。
「あ、いや、あたしの方は本当に、それでも構わないから。うん、みんな
も」
「そんな取ってつけたように「みんなも」だなんて。いやん、まこちゃん
も正直ねー」
「別にそんな……」
 深い意味も考えも無かったのだが、美奈子の言葉に顔をあげた亜美と視
線が合うと、まことはなんだか急に胸の鼓動が早くなったような気がした。
「ほ、ほんとに構わないから」
 美奈子の思惑はさておき、その言葉は亜美だけに向けられていた。


「それにしても外、すごい事になってるわねー」
 レイが窓を開けて呟く。風向きが逆なのか雨粒は一切部屋の中には入っ
てこない。けれどもそれがかえって雨の勢いを感じさせた。
「バケツをひっくり返したどころの話じゃないね」
 まことが相づちをうつ。
「滝を裏側から見てるみたいだ」
 濁流を想像させるような雨音にまじり、ゴロゴロと雷の音が聞こえてく
る。その音と時折閃く雷光は、誰にでも分かるほど次第に間隔を狭めてき
ていた。
「大雨洪水警報が出たって」
 テレビを見ていたうさぎが振り向いた。その瞬間。世界が白い光に包ま
れ、建物を揺るがす程の轟音が鳴り響いた。
「きにゃー!」「うわっ、怖ぁ」
 雷鳴の余韻が残る中、今度は一転して辺りが闇に包まれる。
 ぶぅん、という軽いハム音を残して消えたテレビの残像だけが、しばら
くのあいだ薄青く光っていたが、やがてそれも見えなくなった。
「何!?」「停電?」「まこちゃん?」「こわいよー」
「ブレーカーじゃないみたいだね」
 テレビの音声が消えた中、雨音がひときわ激しさを増したように感じら
れた。
「今の雷、どこかに落ちたのかな?」
 暗闇の中からまことの声。
「どうかしら? 雨がひどくて何も見えないわ。少なくともこの周囲は停
電してるみたいね。街灯も全然見えないし」
 窓際にいたレイの声。しかし場所は分かっていても姿は全く見えない。
ただでさえ視界を遮っている雨が、停電とは無関係のビルの非常灯や道路
の自発光灯の光をも遮っているらしい。
「とりあえずレイちゃん、窓閉めない? こうも雨音がうるさいと気が滅
入ちゃうわ」
「そうね」
 美奈子の声のした方に向かって頷くと、レイはカラカラと窓を閉めた。
雨音がようやく遠くなり、誰ともなくついたため息が皆の耳に届いた。
「まこちゃん、懐中電灯か蝋燭はないかしら?」
 皆の気が少し落ち着いたところで亜美が口を開く。
「どっちもあったと思うけど、どこに仕舞ってたかなぁ」
「それじゃ、いざって時駄目じゃない」
 呆れたようなレイの声。
「とにかく探してみるよ。あ、痛っ!」
 まことの動く気配と同時に、部屋の中にあったテーブルに足をぶつけた
であろう鈍い音が響いた。
「大丈夫、まこちゃん?」
「うー、なんとか」
「明かりはいいから、今はあまり動き回らない方がいいわ。いくら自分の
家でも、こんなに暗かったら危険よ」
「そうだね」
 心配げな亜美の声に、まことは痛む足をさすりながら床に腰を下ろした。
 この部屋にはミニ薔薇やアロエのような、ぶつかったら危なそうな植物
の鉢や壁掛けプランターの類が幾つもある。自分の部屋の状況は把握して
いたつもりだったが、亜美の言うとおり周囲が全く見えない状況では下手
に動かない方がいいだろう、とまことは思った。
「停電、いつまで続くのかなぁ」
 不安そうなうさぎの声。それを嘲笑うかのように、再び稲妻が閃き雷鳴
が窓をビリビリと震わせた。
「レイちゃぁん、美奈子ちゃぁん」
「私はここよ」「ちなみにあたしはこっこでぇーす」
 レイが窓の縁を掌でバンバン叩く。一方どこか楽しげな美奈子の声は先
ほどとは違う位置から聞こえた。
 暗闇の中、うさぎがゴソゴソと動く気配が伝わってくる。
「ラジオでもあれば、少しは状況が分かるんだけど」
 時折光る稲妻のせいで、かえっていつまでたっても暗闇に目が慣れない
でいた。声で大体の位置は分かるが、誰がどこにいるかは正確には把握で
きそうもない。
「ごめんね、何にも用意してなくて」
 まことの声が意外に近くに聞こえたので、亜美は少しびっくりした。恐
る恐る手を伸ばしてみるが、何にも触れることはできなかった。
「まぁ、まこちゃんO型だから、そーいう細かい事を期待しても無駄よね」
「そういう美奈子ちゃんは、台風が近づくとワクワクするB型だろ」
「しない? 普通」
「しないよ」
「あのね、こんな時に言う事じゃないかもしれないけど、血液型と性格の
因果関係は…」
 美奈子とまことのやりとりに、思わず口をはさむ亜美。
「でもこの中で家に非常用の防災袋用意してるのって、亜美ちゃんとAB
型のレイちゃんくらいだと思うんだけど。どうかしら?」
「だからそれは血液型のせいじゃなくって…」
「ひやぁ!」
 突然、窓際の方からレイの素っ頓狂な悲鳴があがった。
「レイちゃん?」「どうしたの?」
「う、うさぎでしょ。いきなり変な所触らないでよ」
「あ、これレイちゃんの足かぁ。何かと思っちゃった」
「だから撫で回すなぁ」
 ばたばたばた。レイが這いずりながらその場から逃げ出す音。見えては
いないのだろうが、その様子に美奈子がクスクスと笑う。
「亜美ちゃん、停電っていまどき直るまでに三十分もかかんないんでしょ」
「程度にもよるけど、そうだと思うわ」
「それだったらその三十分。じっとしてるより楽しんだ方が得だと思わな
い?」
「美奈子ちゃん…」
 期せずして三方からため息が聞こえた。
「楽しむって、この状況で何を楽しむのよ」
 恐らく頭に手をあてて呆れているであろうレイの声。
「そりゃまぁ、イロイロ。例えばこんな事とか……」
「あんっ、美奈子ちゃん。そんなとこ舐めたらくすぐったいよ」
「ちょ、美奈っ! うさぎに何やってんの!」
 ガタタッ。ゴスッ。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
 慌てたレイの立ち上がる気配。そして鈍い音。声に鳴らない悲鳴。
(ハンギングポットに頭をぶつけたわね)
 亜美はレイの声のした位置から自分の記憶をたぐった。天井からつり下
げてあった半球状の鉢は、まことが今週、彩りの鮮やかなベゴニアに植え
変えたばかりだ。
「ふふふふふ、あなたに私の位置が分かるかしら?」
 よくあるヒーローものの、よくあるような敵の台詞で美奈子がレイを挑
発する。
「それくらいっ。巫女をなめないでよね。臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・
在――――」
「亜美ちゃん」
「まこちゃん?」
 美奈子とレイの様子に耳をそばだてていた亜美のすぐ側で、まことの声
が聞こえた。
「キッチンの方向は分かるよね。ここにいちゃ危なそうだから、場所を移
さない?」
「そうね」
 亜美はまことの声のした方に頷くと、そろそろと手探りでキッチンに向
かった。
 
 
 キッチンにたどり着いたまことと亜美は、流し台を背にして座った。ま
ことの位置を確認しようと亜美が手を伸ばすと、まこともそう思っていた
らしく互いの指と指がぶつかる。二人は小さく笑うとしっかりと手をつな
いだ。
「……実際のとこ、復旧までにどれくらいかかるのかな?」
「そうね。雨が収まってからだとしたら、もう少しはかかるかもしれない
わね」
 入り口からは一番奥になるキッチンでも、外の雨音はかすかにだが聞こ
えてくる。
「それなんだけどさ、この雨っていつぐらいに止むのかなぁ? 夕方の天
気予報じゃ、こんなに酷くなるなんて一言も言ってなかったのに。意外と
アテになんないもんだね」
「それでも一昔前に比べれば天気予報も随分と進歩したのよ。昔はそれこ
そ天気図と民間伝承を併用してたらしいし」
「民間伝承って、猫が顔を洗うと雨とかそーいうの?」
「猫はどうか分からないけど、雲の様子とか夕焼けの具合とかはかなり予
報の参考にしていたそうよ。それに比べれば今は気象衛星もあるし、何百
万ものパラメーターからカオス理論に基づいた大気循環や海水温の変位モ
デルを作成して、それをスーパーコンピュターを使うことによって………」
「聞いてるよ。うん、それで?」
 このまま話つづけていいのだろうか? というためらいがちな沈黙に、
まことは続きをうながした。
「……えーと。つまりカオス理論を応用することによって、近くは数時間
後の竜巻や雷雨から遠くは三ヶ月後の予報まで、四十八時間後の天気なら、
今では八十パーセント以上の精度で予測できるようになったのよ」
「ふぅん。そのカオス理論ってどういうの? カオスって人が考えたの?」
 それでも彼女のことを気遣ってか話を短く切り上げた亜美に、まことは
逆に質問を返す。
 亜美の話は難しすぎて分からない事も多いけれど、こういう話をしてい
る時の彼女は傍目にも楽しそうだったし、まこと自身、亜美の興味のある
事には関心があった。
 それに少しでも話を理解できた方が、亜美とより分かり合えるような、
まことにはそんな気がするのだった。
「ううん、人の名前じゃないの。日本語にすると『混沌』。物事の区別が
つかない状態を言って、本来は天地創造以前の世界を現す言葉なのよ」
「混沌の……理論?」
 ふたつの言葉が持つイメージの違いにまことは首をひねる。
「そうねぇ、それじゃあバタフライ効果って聞いたことあるかしら?」
 自分の話に興味を持ってくれた事に亜美は嬉しそうに問い返す。
 そんな亜美の様子が嬉しくて、まことは記憶力の限りを尽くして該当す
る言葉を頭の中から拾い出す。
「んー、それなら何となく知ってる。確か『風が吹くと桶屋が儲かる』っ
てやつだよね?」
「まぁ……あながちハズレでもないわね」
 亜美はわずかの時間考えるとクスリと笑った。
「簡単に言えば、蝶の羽ばたきのようなほんの些細なきっかけが『混沌』
を…今の場合は予測不可能な結果と言った方がいいかしら? 例えば遠く
離れた場所で台風を生む事もあり得るっていう、カオス理論を説明する上
での代表的な喩え話ね」
「うん」
「言い方を変えれば、この世の全ての物事は気の遠くなるほどの複雑さで
お互いに深く関わり合って存在していて、互いの“今”はそれらの相互作
用によって作り出されている、という事かしら。その相互作用を解析しよ
うっていうのが、カオス理論の考えね。あくまで簡単に言えばだけど」
「それって例えば、あたしと亜美ちゃんが今こうしてここにいる事とかも
相互作用の結果なの?」
「ある意味そうね。今日急に雨が降らなければ、今私達はここにいなかっ
たかもしれないし、その雨もいつかどこかでの蝶の羽ばたきが大気を揺ら
さなければ降らなかったもしれない。そういう事」
「でもそれを計算で出そうってのが天気予報だろ? そりゃ当たらないよ
なぁ」
「当たらない事に納得されても……」
 思わず苦笑してしまう亜美。
「現代のカオス理論と同じものではないけれど、セーラーマーキュリーの
コンピューターにも似たような考えが使われていて、敵の攻撃や出現ポイ
ントの解析に役立っているのよ」
「そ、そうなんだ。マーキュリーのコンピューターにねぇ。そりゃ凄いや」
「ふふっ。あ、そうだ。いいことを思いついたわ」
「亜美ちゃん?」
「ちょっと待っててね」
 亜美はまことの手を放して立ち上がり、ポケットから変身スティックを
取り出すとセーラーマーキュリーへとメイクアップした。そしてゴーグル
をセットすると暗視モードへと切り替える。思った通り、人の目では何も
見えなかった暗闇も、ゴーグルを通せば歩き回るには十分な視界を確保す
ることができた。
(これで懐中電灯やラジオを探すことができるわね)
「まこちゃ…」
「亜美ちゃん、どこ?」
 視線を落とすと、まことが手探りで亜美を探していた。その様子に亜美
は思わず呼びかけた名を呑み込んだ。
(まこちゃん……可愛い)
 普段は仲間を守る立場にあるせいか、凛々しいという印象を受けるまこ
との表情も、今は辺りが全然見えていない故かひどく心細そうに見える。
亜美の居場所が分からずにおろおろしている姿は、まるで迷子になった子
供のようだった。
(まこちゃんもこんな顔するんだ……)
 思わず抱きしめたくなるような衝動をこらえ、亜美は足音をしのばせて
そっと後ずさった。
 空気の動きを感じてまことが亜美の方に顔を向ける。
「そこにいるの?」
 亜美は黙ったまま、腰をかがめてまことと目線を合わせた。試しに目の
前で手をひらひらさせてみるが、やはりまことには分からないらしい。
「黙ってないで何か言ってよ。ねぇ!」
(まこちゃん……)
 不安を色濃くにじませた言葉に、亜美は不思議と胸の高鳴りを覚えた。
もっとまことを困惑させてみたい。そんな気持ちに駆られる。
「……ね、まこちゃん」
「亜美ちゃん?」
「真っ暗闇だと鼻をつままれても分からないって本当だと思う?」
「?」
 むにゅ。
「ふが。あ、あひひゃん、は、はにを!」
「ふふっ、何事も実際に確かめてみないとね」
 亜美はまことの鼻をつまんでいた手を放した。まことはとっさに手を伸
ばすが、既にその位置に亜美はいない。
「あ、亜美ちゃん、マーキュリーになって自分だけ見えてるんだろ。それ
って反則だよ」
 叫んではみるものの視界はまったくなく、亜美からの反応も返ってこな
い。それがまたまことの不安をかき立てる。
「いい加減にしなよ……」
 強気な言葉とは裏腹の揺れる瞳に、亜美はますますドキドキしてしまう。
 そのままさらに黙っていると、まことは流し台に右手をついて恐る恐る
立ち上がり、左手を伸ばして辺りを探ろうとした。けれどもその手は虚し
く空を切るばかり。
「いるんだろ? ねぇ、そこにいるんだよね」
 亜美はおもむろに指を伸ばすと、ガラ空きになっているまことの左脇腹
を下からつうっと撫で上げた。
「ひゃんっ」
 びくっと体を震わせ反射的にしゃがみ込むまこと。
 我が身を守ろうとする胎児のような仕草に亜美は小さく微笑んだ。
「……ひどいよ亜美ちゃん。どうしてこんなイジワルするんだよ」
 体を丸めたままの姿勢でまことが呟く。
「…………」
 まことの雰囲気に、亜美はさすがに少し調子に乗りすぎたと感じた。
「あたし、真っ暗な所はさ、怖いって訳じゃないけど不安になるんだ」
 目の前の暗闇にまことは話しかける。
「側にいてくれた人が急にいなくなるような。そのまま戻ってこないよう
な。だからさっき亜美ちゃんが手を繋いでくれた時、とても嬉しかった。
なのに……」
 まことはぺたんと腰を下ろすと顔をあげ、右手を差し伸ばした。見えて
はいない筈なのに、その手は狂い無く亜美の方に向けられている。
「お願い。あたしの側から離れないでよ。亜美ちゃんまでいなくなったら
あたし、どうしたらいいか……」
「……ごめんなさい。私……」
 亜美はまことの目の前にしゃがむと、両手でそっと差し出された右手を
包み込んだ。一瞬まことの体が震え、そして力強く握り返してくる。
「亜美ちゃん……なーんてね」
「え? きゃっ!」
 握られた手をぐいっと引っ張られ、亜美はバランスを崩してまこと胸へ
とへ倒れ込んだ。そこへすかさず左腕が逃げないように亜美の体を抱きし
める。
「まったく。こんな悪戯っ娘だとは思わなかったよ」
 亜美が上目使いで見上げると、まことは怒ったような、けれどもどこか
ほっとしたような様子で亜美を見下ろしていた。
「だって……」
(まこちゃん可愛かったんだもの)
 その事を告げたらまことはどう反応するだろうか。けれどもそれを確認
するよりも早く、まことの右手が亜美の頭にポンとおかれた。
「さて、どーやってお返ししようかなぁ」
 わしゃわしゃわしゃ。
 亜美の髪を指に絡ませるように弄びながら、まことは何か良からぬ事を
考えるかのように天井を見上げる。
「まこちゃん、怒ってる?」
「そりゃヒドイ事されたんだもん。それ相応のお返しはしないと、ねっ!」
 ぴしっ。
「いたっ」
 デコピン炸裂。思わず額に伸ばしかけた手はしかし、今攻撃を仕掛けた
ばかりの手によりがっちりと捕らえられてしまう。
「痛い?」
「!」
 亜美に答える隙も与えず、まことは今度はデコピンを食らわせた額にそ
っと口づけた。
「ふふっ」
 思わず身を固くする亜美の反応を楽しむように、徐々に唇の位置を移動
する。
「だ、だめっ、まこちゃん」
 普段のまこととは違った大胆な行動に、亜美は焦りを帯びた声をあげた。
「だってこうしないと、亜美ちゃんがどこにいるか分からないんだもの」
 くすくす笑いながらまことが応える。暗闇のせいで亜美の表情は見えな
いが、その焦り具合は手に取るように分かるらしい。
「あ、ここは耳だね」
 吐息がかかるくらいの距離に亜美はうろたえた。亜美の表情が全然見え
ないことが、まことをいつもより大胆にさせている。自分だけが見えてい
る事に少しの優越感を感じていたさっきまでとはまるで逆で、見えていな
い筈なのに全て見られているような気がしてくる。
「亜美ちゃん、まこちゃん、そこにいるの?」
 不意に後ろの方から美奈子の声がした。亜美が慌てて振り向くと、キッ
チンの入り口の柱に掴まるようにして、美奈子とレイがこちらに顔を向け
ている。その向こうにはうさぎもいるようだ。
「ここにいるよ。美奈子ちゃん、お楽しみは終わったの?」
 まことがまるで何もなかったかのように返事を返す。
「やっぱり何も見えないと今イチ盛り上がりに欠けるのよねぇ」
 美奈子はレイの方にうらめしそうに声をかける。どうやら美奈子の目論
んでいた程にはレイのノリは良くなかったようだ。
「そうだね」
 相づちをうちながら、まことは亜美の耳たぶを甘噛みした。
「だ、駄目よまこちゃん。みんな見てる」
 亜美が小声で抗議する。
「見えてないよ」
 まことは亜美の抗議を軽くいなすと、くるりと体勢を入れ替えた。
「あ」
 亜美は恥ずかしさに身じろぎした。ゴーグルで視界を確保している身に
とっては、まことが自分達のことを美奈子らに見せつけようとでもしてい
るかのように思えた。
「亜美ちゃんもそこにいるんでしょ?」
「あたしの目の前にいるよ」
 レイの声のした方にそう応えながら、まことは指で亜美の顔をなぞった。
額から鼻梁、唇へ。
 そうした仕草の一つ一つをレイや美奈子に見られているような気がして、
亜美は小さく体を震わせた。
 自分とまことが互いに対し友情以上の感情を持っていることは、レイや
美奈子、うさぎですらも承知している事だろう。だが、こんな姿を見られ
て良いかと言えば、それはまた別の話だった。
 隠しだてしようとは思っていない。三人にはいずれはっきり自分の口か
らまこととの事を打ち明けたかった。けれども今はまだ、その勇気が持て
ないのもまた事実だった。
 まことの指は唇からさらに下へたどり、おとがいで止まった。そして次
の瞬間には心もち上を向くように力が加えられ、亜美が何か考えるよりも
早く唇が重ねられていた。
「…やっ」
 亜美は咄嗟にまことの腕を振り払うと、彼女を突き飛ばすように立ち上
がり、レイ達の間をすりぬけてキッチンの外へと駆け出した。
「きゃっ」「な、何?」「うわぁ!」
 キッチンの入口辺りで中の様子を伺っていたレイ達は、突然の出来事に
何が起こったのか分からずうろたえた。
「亜美ちゃん!」
 暗闇にまことの声が響く。だがそれに応えたのは、ガシャンと閉じられ
た玄関の扉の音だけだった。


 大粒の雨が痛いくらいに体を打つ。
 部屋の中と違い外はどこかしらの光が散乱して薄ぼんやりと明るいが、
変身を解いた亜美には自分が今どこに居るのかすら分からなかった。
 まことの部屋を飛び出し、そのまま闇雲に走った。走り疲れてようやく
自分がマーキュリーのままであることに気づき、暗うつとした気持ちで変
身を解いた。
(どうして私はここに一人でいるのだろう?)
 暗闇の中とはいえ、あそこには確かな温もりがあったのに。
 あの時マーキュリーに変身さえしなければ。変身しても、すぐに明かり
を探しに行っていれば。そもそも停電さえしなければ。雨さえ降らなけれ
ば……。
「まこちゃん……」
 夜の闇をまとった雨の奥に答える声は無い。
 立ち尽くしたままの亜美の頬を、雨ではない水滴が伝った。
 蝶と混沌。
 ついさっき、まことに説明した事柄が脳裏に蘇る。
 ほんの些細なきっかけが予測不可能な結果を生む。些細な蝶の羽ばたき
は、結局南の海に嵐を生んだのだろうか? その嵐は海を渡り、やがて蝶
自身をも吹き飛ばしてしまうかもしれないのに。果たして蝶はそのことを
知り得ただろうか?
 とりとめのない考えが頭の中にうずまく。
 天気予報、カオス理論、空間モデル、雨、雷、停電、闇、手の温もり、
震える声、額を弾いた指の感触。
 幾百万のパラメーターを持ってしても完全な予測なんて得られない。ま
して自分はまことの事をどれほど知っていると言えるのだろう? 誕生日、
血液型、好きな食べ物、嫌いな学科。どれだけ数え上げたって1万にも届
きはしない。
「まこちゃん……」
 呟いた声は雨にまぎれて消えた。
 嫌われたかもしれない。知らないままに、彼女の領域に踏み込みすぎた
のかもしれない。
(それでも……それでも私は)
「亜美ちゃん…………ふうっ。見つけたっ、ハァっ」
 不意に雨がやんだ。否、亜美の上に傘がさしかけられた。
 まことだった。
「……どうして?」
 驚きよりも先に疑問が口をついて出た。
 自分ですら自分の居場所が分からない。それなのに、10メートル先も
見通せない雨と停電の中を、マーキュリーのようなアイテムを持たないま
ことがどうやってここまで来られたのだろう?
「っはぁ、カオス理論の応用……はぁ、ごめん、嘘。でも、分かるよ、亜
美ちゃんの、いる所くらい」
 薄暗がりの中、息を切らすまことの全身も自分と同じくずぶ濡れな事に
亜美は気付いた。
 傘をさしていれば、ここまで濡れることはない。それはつまり、傘を持
ったままでありながら、それをささずにここまで来たという事で。
「…………」
「なんて言えばいいのかな……。あたしは亜美ちゃんみたくうまく言葉に
は出来ないんだけど。なんとなく分かるんだ、近くにいなくても。
 例えば亜美ちゃんの足音だとか、息づかいというか、気配? そんなん
だけじゃなくて、何か引力みたいなもの…あたしを呼ぶ声とか。
 きっとあたしと同じ事を考えてるんじゃないかみたいな、その、目に見
えない繋がりみたいな。えーと、そう、相互作用とか」
「…………」
「ううん、そんなの全部ひっくるめて、本当は一言で済むんだ。その……
あたしはっ……、あたしは亜美ちゃんの事が好きっ。好きなんだよ」
「!」
「……だから、好きな人のいる所くらい、分かるんだ」
 亜美は胸元に手をあてた。心が震えるのが分かった。
 いつだったか、街の雑踏の中でまことに聞かれた事があった。身寄りの
ない自分がもし、人で溢れる世界のどこかにいなくなってしまったら、探
し出す事はできるのかと。
 亜美は言った。まことがどこにいても、絶対に私が見つけると。
 そしてまこともまた、亜美がどこにいても絶対に自分が見つけだすと言
ってくれたのだった。
 そうだった、と亜美は思い出した。
 相互作用。
 全く異なる始まりから、ほとんど同じ結果になることもある。それもま
たカオスの姿であり、相互作用のなせる技なのだ。
 自分とまことは、生まれた時も育った場所も違うけれど、それでもお互
いが「好き」という気持ちは同じなのだ。
「信じてもらえなくても、いや、本当は信じてほしいんだけど、あたしは
亜美ちゃんの事、本当に好きで。本当に。……でも、ごめん、あんな事し
まって。嫌われちゃっても仕方ないけど、その――――」
「私も好き。まこちゃんのこと」
 亜美はまことに近づくと、傘を持つ手に自分の手を添えた。そして二人
で一つの傘の中に収まった。
 薄暗がりの中で亜美はまことの表情を見る事はできなかったが、確かに
彼女の言った通り、そこに自分の心を引き寄せる引力のようなもの、安心
できる気配や繋がりのようなものを感じた。
(「きっとあたしと同じ事を考えているんじゃないか――――」)
 今なら分かる。
 亜美はそんな気がした。
 闇の中に一人置き去られることへの不安。冗談めかしてはいたが、キッ
チンでのまことの言葉は彼女の本心だったのだろう。
「泣かせてごめん……」
 まことの掌が亜美の頬に触れ、親指がゆっくりと水滴を拭う。
 思ったよりも近くに感じる視線と、わずかに熱い息づかい。
「…雨よ。気にしなくていいから」
「……フ」
 小さく笑って、まことの手が亜美の頬から離れる。
 きっと不安の裏返しであろうまことの行動。あの時も、そして今も。
 その事をまこと自身が理解しているかどうかは分からないが、亜美は前
よりずっとまことの事を愛おしく感じた。
「ね、まこちゃん」
「なに?」
「キス、していいよ」
「……ええっ!」
 思わず声をあげてしまうまこと。
 なにしろ亜美の口からそんな言葉を聞かされたのは初めてだったし、つ
いさっき一度拒絶されているのだから無理もない。
「……ほんとに?」
「今、したいと思ったんじゃないの?」
「思ったケド…」
「…私もだから」
 ためらいがちに聞き返すまことの首に、亜美は催促するかのように腕を
まわす。まことは傘でふさがっていない腕を亜美の肩にまわすと一応辺り
を見回し、そして少しだけ身を屈めた。 
「じゃあ遠慮なく……いただきます」
「ばか」
 亜美は目を閉じて、まことの唇だけを感じる。
 ふと、雨の向こうでレイや美奈子がこちらの様子を伺っているかも、と
いう考えが脳裏をよぎったが、べつにいま突然停電が終わっても構うこと
はない。そう思った。


                           END.

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